ちくさ病院

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研究の話

私はもともと腎臓内科医でしたが名古屋大学大学院に入学したころ、大学院生の規則で最低1年は基礎の研究室で研究しなければならないという規則ができました。
適当に籍だけおいてお茶を濁す医局もあったとは思うのですが、私は実際に基礎の医局(微生物学教室)に派遣され研究に専念することになりました。
1年が経ちましたが天邪鬼な性格のせいでそのまま放置され、大学院修了後に至っては帰局しろとも言われなかったので、そのまま基礎の教室の助手として居座ってしまいました。

就職して2年たったころ、教授から呼ばれ「米国の研究室に留学するように」命令を受けました。
「どこに留学するのですか?」と聞いたのですが、「どこでもよい」とのことで、とりあえず気候のよいカリフォルニアで研究室を探していただくことにしました。もちろん私のような実績もない研究者に給料をだして雇ってくれる研究室などあるわけもなく、サンディエゴの某研究所から「給料は出さない、という条件なら来ても良い」という返事をいただきました。幸い、所属していた大学から2年間休職扱いで若干の給与がでることとなり、それをあてに 1996 年 4 月、身重の家内を連れて米国に向けて出発しました。
出発の前に教授からは「インパクトファクターで 10点以上の論文がでなかったら帰ってこなくてよい」と激励を受けました。インパクトファクター10 点以上の論文をだせとは超一流の科学雑誌に論文を発表しろ、ということです。当時は身の引き締まる思いでしたが、今考えるとアルバイトにばかり精を出している不良研究員に対する退職勧告だったのかもしれません。

渡米

  • さて、初めての米国です。

    というよりは私にとって初めての外国です。

    出発前に少し駅前留学をしてきましたが、実際に現地に来ると言葉が全然通じません。たとえばレストランへ入って料理を注文すると、黒人のおじさんが「バボ?」と聞いてきます。
    「バボって何?」と困っているとおじさんは怒ったように「バボ!」と畳み掛けてきます。しばらくしてわかったのですが、付け合せの野菜(ベジタブル⇒バボ)はどれにするか聞いているのです。ついでにビールを注文したらなんとミネラルウォーターがでてきました。どうやらバドワイザーと言ったのにボトルオブウォーターがでてきてしまったようです。
    自分の前途について途方にくれましたが妊娠中の妻を背負って弱音は吐けません。何とかレンタカーを借りて、出発前に予約をしたホテルを目指すことになりました。

ホテルを予約したデル・マーはサーフィンの聖地として有名です。
日本を発つ前にFAXのやり取りで予約は入れてありましたが当時はネット環境も貧弱でサンディエゴ周辺の詳細な地図を日本で手に入れることができませんでした。
そのため、お母さんのメモを頼りに出撃する初めてのお使い、みたいな状況になってしまい、なかなかホテルにたどり着けません。そのうち日が暮れたので、あきらめて公衆電話から電話しようと車をとめたらちょうどホテルの目の前でした。

なんの変哲もない道に面してホテルは佇んでいた。
翌日はさっそくラ・ホヤにあるスクリプス研究所へ出向きました。
スクリプス、というのは米国の新聞王だそうで、その一族が研究所となる建物を寄付したのだそうです。
PGA ゴルフツアーが開かれるトーレイパインズコースに隣接して建てられたそれらの建物には免疫学ビルディング・生化学ビルディング・分子生物学ビルディングなどと名前がついており、雑居ビルよろしくいろんな研究室が入居していました。研究室は借りている分だけ賃貸料が発生しますので、素晴らしい業績を挙げている研究室はどんどん縄張りを広げ、いっぽうで業績がパッとせず研究資金を確保できずに消えていく研究室なんかもあります。繁華街なんかでよく見る、スナックなんかが入居している雑居ビル(ソシアルビル)を思い浮かべていただければ当たらずとも遠からず、です。

したがって日本から留学に来た研究者の中にはスクリプス研究所に来てみたけれど受け入れてくれるはずの研究室が消滅してなくなっていた、などという実例をみたことがあります。

その研究所は Torrey Pines Road(トーリー松通り)に面して建っていた。
見慣れた日本の松と違ってアメリカの松は天に向かって自由奔放に伸び放題だった。

研究室

さて私の研究室ですが、入り口に立っている警備員に免疫学研究室に来訪した旨を伝えましたが、英語が下手なのかすっかり不審者扱いされてしまい警備員から連絡を受けた研究室の人が身柄引き受けに来てくれるまで中には入れてもらえませんでした。
迎えに来てくれたのは J.D.リーという台湾人で彼に連れられて免疫学ビルディングの所長であるユダヤ人のボス(R.J.ユルビッチ)のところに案内されました。
そこでしばらく歓談しましたが、早口でしかも籠ったようなしゃべり方をされるため何を話しているのか良くわかりませんでした。ただ、なんとなくあまり期待されていない感がヒシヒシと伝わってきて、最後に「君はモノクローナル抗体を1本作れば十分だから」と言われ、研究にあたってはリーの指導を受けるように言われました。
  • マイボス、ユルビッチ

    ユダヤ人ってこんな感じの人が多い。日曜日には頭に小さな帽子を載っけている。

リーはとても愉快な男で皆から JD(ジェイディ)と呼ばれ慕われていました。
米国の研究者は「グラント」という研究資金で生計を立てています。研究者の生活費、雇っている研究員の人件費、オフィスの賃貸料はすべてグラントから払われます。ユダヤ人のボスは複数のグラントをもっており、ポスドクと呼ばれる部下を10人ほど使って研究をしていました。優秀な部下の中にはグラントを持っている者もおり、フルグラントですと生活費を切り詰めれば数名の部下を養えます。

JD はハーフグラントを持っており自分の生活費は自分で賄えるものの部下を持つほどの資金力はありませんでした。後で聞いた話ですが、ユダヤ人のボスは外国人研究者が来ると見込みのありそうな者を直属の研究者として手元に残し、見込みのない者は部下に預けるのだそうです。私の場合は給料を払う必要がないため、給料が払えない JD とチームを組むようにしたようです。
JD はとても面倒見の良い男でアパートの手配や銀行口座の開設など、私が米国で生活できるようにといろいろ段取りをしてくれました。

アメリカで住んでいたアパート。イタリアみたいな外観だけどただのアパート。
日本の青木建設がバブル期にアメリカに進出して建てた。日本が不況のためか私たちの滞在中に
アメリカの不動産業者に渡ってしまった。そのあと、サンディエゴの不動産はどんどん、どんどん値上がりしていった。
ひととおりの手配が終わったあとレストランでいっしょに食事をしました。
話が研究の話になると自分の場合はモノクローナル抗体を作るだけでは不十分で、日本のボスからインパクトファクター10点以上の論文を提出するように言われている、と伝えました。
驚いたことに JD は「インパクトファクターって何?」と言います。
インパクトファクターとは一つの雑誌がどれだけ世界の研究者たちから引用されているかの目安だ、と解説しました。どうやら米国の研究者はこのような指標は誰も気にしていないらしいのです。

「で、10点ってどのぐらい?Journal of Biological Chemistry(米国生化学分子科学学会誌)は生化学の分野ではトップの雑誌だけど、そこに論文を発表すると何点?」
「8点だね。」
「じゃあ、免疫学でトップの Journal of Immunology(米国免疫学会誌)は?」
「同じぐらい。」
「10点以上ある雑誌ってどれ?」
「Journal of Experimental Medicine(実験医学雑誌)なら13点あるよ。」

ここまで話して、彼の表情がこわばるのがわかりました。そして最後にこう言いました。
「もしそれが本当に君のゴールだとしたら、自分がやっている研究について絶対にボスに話しちゃだめだぞ。」

トップジャーナル

「特にネイチャー、セル、サイエンス。この三つの雑誌に論文を投稿するときには絶対に誰にも口外するな。もしボスがそれを知ったら一瞬で顔が真っ赤になり、目が血走り、その研究は二度と君の手には戻ってこないだろう。」

研究の世界で働いている者にとってこの三つの雑誌に論文を掲載することは勲章です。
私たちのボスはスクリプス研究所の免疫学ビルディングで所長を務めるほどの大物でしたがそのボスでさえ、目の色が変わる、というのです。

それから私はアメリカを離れるまでずっと JDと一緒に研究することになりました。その間、たびたびボスに研究の進行具合を報告する機会がありましたが私たちはいつも失敗したデータばかり持ち込んで論文を投稿する寸前まで本当のことは決して報告しませんでした。こんなことを書くとなんてずるい人間なんだ、と思われるかもしれません。しかし、米国の研究現場では日常茶飯事なのです。

私が研究室に入ってすぐ、スクリプス研究所の倫理委員会から呼び出しがありました。行ってみると世界の各国、全米各地からスクリプス研究所にやってきた若手研究者たちが集められていました。
講師の男性は研究に関する倫理やマナーについてひと通り話し終わると「自分の研究を人に盗まれた経験のある人。」と出席者に尋ねました。
するとかなりの若者が手を挙げ、どのように自分の研究が盗まれたかを涙を流しながら語り始めました。講師の男性は出席者の心が落ち着くまで静かに話を聞いていました。これが当時の最先端の研究をしている米国の研究所の現場であったわけです。
同時期に米国で活躍した日本の研究者のコラムを読んだことがありましたが、彼もずっと偽の(というかいい加減な)報告をボスにしていました。しかしある日、報告を終わってボスの部屋から出ていこうとするといきなり出口のところで「ところで君は、本当はどんな研究をしてるんだい?」と背後から声をかけられて心臓が縮む思いをしたそうです。幸い、私はボスから思い切り低い評価を受けていたため米国を離れるまで本当の研究成果について話すことはありませんでした。

新居

研究室に入った当初は当たり前ですが住むところがありません。最初の 1 週間はホテル住まいで食事は外食でしたがこれは結構堪えました。結婚してまだ 1 年も経っていませんでしたが私の胃袋はすっかり妻に飼いならされてしまっていたからです。
JD の援助でやっとアパートに移ることができましたが私たちは生活に必要な物品を全て自前で揃えなければなりませんでした。当時、米国には「ターゲット」という名前の量販店があり、そこにはいつ壊れてもおかしくない怪しげな中国製の日用生活雑貨が山のようにおいてありました。アメリカと日本の小売店の大きな違いですがアメリカでは商品が 1 種類しかありません。たとえば日本でオムツを買おうとするといろんなサイズと「蒸れない」とか「漏れない」とか「臭わない」といった様々な長所のあるいろんなオムツが種類豊富においてあります。しかしアメリカでは全く同じ素材の同じ形の 1 種類だけのオムツが大量においてあるのです。違いといえば「S」「M」「L」ぐらいで製造元の会社が違っても中身は全く同じオムツが天井に届くまで積み上げられています。

よく行ったコンボイ通り沿いのターゲット。
洗うとまだらに色落ちのする T シャツを信じられないくらい安く売っていて、良くも悪くも米国と中国の底力が炸裂していた。
しかし、スーパーマーケットで一番驚いたのは返品システムでした。アメリカのスーパーマーケットでは商品を購入したあと、それが気に入らなければ無償で返品できるのです。クリスマス明けともなるとスーパーマーケットの返品コーナーには長蛇の列ができます。プレゼントを貰った人が気に入らなかったのでしょう。封を開けた商品を持っていくと係員が「何か問題でも?」と聞きます。すると客は「ナッシング(なにも)。」と答えます。これだけで返品終了なのです!こんなことでお金を返しちゃっていいのかお店!と心のなかで叫びましたが店員もお客も当たり前のような顔をしてました。

ターゲットでフライパンなどを購入したら次は布団です。サンディエゴを車で走っているとやたらと「Futon」と書いた看板が目に入ります。

サンディエゴのふとん屋さん。アメリカ全土がこうなのかサンディエゴだけなのか知らないが
大きなスーパーマーケットがある一方でこんな感じの個人商店が結構たくさんあった。
20 年近く前の話なので今はどうなってるのかわからないけど。。。
最初は冗談かと思いましたがこれは本当にふとん屋さんでした。
よくカリフォルニアは温暖だから、サンディエゴは常夏の国だから布団なんぞ必要がない、なんて人がいますがそれは真実ではありません。たしかに海岸ではパームツリーが立ち並んでおり、水着の白人がデッキチェアで寝転んでいます。でもよく見ると誰も泳いでいません。
せっかくサンディエゴに来たのだからと私も海岸に行ってみましたがその理由はすぐにわかりました。水が氷のように冷たいのです。
サンディエゴの海岸は直接外洋に面しており、そこにカリフォルニア海流という寒流がぶつかっています。このため、人の背丈を超える波が常に打ち付けていて海岸にはアザラシが寝そべっているのです。この寒流の影響でサンディエゴの気候は常に安定しており、冬は日本の 4 月上旬、夏は 5 月下旬ぐらいの気温です。海で泳いでいるのは同じ研究室のロシア人だけでそれ以外の一般人は泳いでいませんでした。
  • サンディエゴの海で泳いでいたロシア人ブラジミル・現スクリプス研究所助教授。

    僕がベンチに座って太平洋を眺めていたら「日本が懐かしいのか?」と声をかけてきた。
    あんな冷たい海でよく泳げるな、と聞いたら「新鮮な水は冷たいものだ。」と平気な顔だった。
    海面から顔を上げるとアザラシと鉢合わせになるらしい。間違ってシャチに襲われないか心配していたが、2016 年のネイチャーイムノロジー誌に彼の名前を見たので少なくとも 2016年までは食われていない。


Google street view でみるアパートから車で 15 分ぐらいのラホヤの海岸。アザラシが噛むから手を出さないように、
という標識が立っている。娘を抱きながらこの海岸を歩いていたら海に落ちてしまった。妻が海岸沿いの雑貨店で
ウィンドーショッピングをしていたら「お前のベビーとハズバンドが海に落ちた。」とアメリカ人が教えてくれたそうだ。
そんな場所なので当然、布団なしでは夜眠れず、早速ふとん屋さんでベッドとマットレス、掛け布団と敷布団をオーダーしてアパートまで届けてもらうことにしました。
そして研究所に出勤してその晩、アパートに帰ったら妻が放心したようにしゃがみこんでいます。何かと思ったら「ベッドが届いた。」と。でもベッドなんてどこにもありません。よく見ると段ボール箱で包装された木の板がおいてあります。そう、アメリカではベッドは自分で組み立てるのです。急いでターゲットで「Do it herself kit(女の子でも独りできる優しい工具セット)」というのを買って来ましたが、その日から到着する全ての家具を自分で組み立てる羽目になりました。
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