研究の話 RESEARCH

はじめに

私はもともと腎臓内科医でしたが名古屋大学大学院に入学したころ、
大学院生の規則で最低1年は基礎の研究室で研究しなければならないという規則ができました。 適当に籍だけおいてお茶を濁す医局もあったとは思うのですが、
私は実際に基礎の医局(微生物学教室)に派遣され研究に専念することになりました。 1年が経ちましたが天邪鬼な性格のせいでそのまま放置され、大学院修了後に至っては帰局しろとも言われなかったので、 そのまま基礎の教室の助手として居座ってしまいました。

就職して2年たったころ、教授から呼ばれ「米国の研究室に留学するように」命令を受けました。 「どこに留学するのですか?」と聞いたのですが、「どこでもよい」とのことで、とりあえず気候のよいカリフォルニアで研究室を探していただく ことにしました。もちろん私のような実績もない研究者に給料をだして雇ってくれる研究室などあるわけもなく、サンディエゴの某研究所から「給 料は出さない、という条件なら来ても良い」という返事をいただきました。幸い、所属していた大学から2年間休職扱いで若干の給与がでることとな り、それをあてに 1996 年 4 月、身重の家内を連れて米国に向けて出発しました。
出発の前に教授からは「インパクトファクターで 10点以上の論文がでなかったら帰ってこなくてよい」と激励を受けました。インパクトファクター 10 点以上の論文をだせとは超一流の科学雑誌に論文を発表しろ、ということです。当時は身の引き締まる思いでしたが、今考えるとアルバイトにば かり精を出している不良研究員に対する退職勧告だったのかもしれません。

渡米

さて、初めての米国です。

というよりは私にとって初めての外国です。

出発前に少し駅前留学をしてきましたが、実際に現地に来ると言葉が全然通じません。たとえばレストランへ入って料理を注文すると、黒人のおじ さんが「バボ?」と聞いてきます。
「バボって何?」と困っているとおじさんは怒ったように「バボ!」と畳み掛けてきます。しばらくしてわかったのですが、付け合せの野菜(ベジ タブル⇒バボ)はどれにするか聞いているのです。ついでにビールを注文したらなんとミネラルウォーターがでてきました。どうやらバドワイザー と言ったのにボトルオブウォーターがでてきてしまったようです。
自分の前途について途方にくれましたが妊娠中の妻を背負って弱音は吐けません。何とかレンタカーを借りて、出発前に予約をしたホテルを目指す ことになりました。

ホテルを予約したデル・マーはサーフィンの聖地として有名です。
日本を発つ前にFAXのやり取りで予約は入れてありましたが当時はネット環境も貧弱でサンディエゴ周辺の詳細な地図を日本で手に入れることがで きませんでした。
そのため、お母さんのメモを頼りに出撃する初めてのお使い、みたいな状況になってしまい、なかなかホテルにたどり着けません。そのうち日が暮 れたので、あきらめて公衆電話から電話しようと車をとめたらちょうどホテルの目の前でした。

なんの変哲もない道に面してホテルは佇んでいた。

翌日はさっそくラ・ホヤにあるスクリプス研究所へ出向きました。
スクリプス、というのは米国の新聞王だそうで、その一族が研究所となる建物を寄付したのだそうです。
PGA ゴルフツアーが開かれるトーレイパインズコースに隣接して建てられたそれらの建物には免疫学ビルディング・生化学ビルディング・分子生物 学ビルディングなどと名前がついており、雑居ビルよろしくいろんな研究室が入居していました。研究室は借りている分だけ賃貸料が発生しますの で、素晴らしい業績を挙げている研究室はどんどん縄張りを広げ、いっぽうで業績がパッとせず研究資金を確保できずに消えていく研究室なんかも あります。繁華街なんかでよく見る、スナックなんかが入居している雑居ビル(ソシアルビル)を思い浮かべていただければ当たらずとも遠から ず、です。
したがって日本から留学に来た研究者の中にはスクリプス研究所に来てみたけれど受け入れてくれるはずの研究室が消滅してなくなっていた、など という実例をみたことがあります。

その研究所は Torrey Pines Road(トーリー松通り)に面して建っていた。
見慣れた日本の松と違ってアメリカの松は天に向かって自由奔放に伸び放題だった。

研究室

さて私の研究室ですが、入り口に立っている警備員に免疫学研究室に来訪した旨を伝えましたが、英語が下手なのかすっかり不審者扱いされてしま い警備員から連絡を受けた研究室の人が身柄引き受けに来てくれるまで中には入れてもらえませんでした。
迎えに来てくれたのは J.D.リーという台湾人で彼に連れられて免疫学ビルディングの所長であるユダヤ人のボス(R.J.ユルビッチ)のところに案内 されました。
そこでしばらく歓談しましたが、早口でしかも籠ったようなしゃべり方をされるため何を話しているのか良くわかりませんでした。ただ、なんとな くあまり期待されていない感がヒシヒシと伝わってきて、最後に「君はモノクローナル抗体を1本作れば十分だから」と言われ、研究にあたっては リーの指導を受けるように言われました。

マイボス、ユルビッチ
ユダヤ人ってこんな感じの人が多い。日曜日には頭に小さな帽子を載っけている。

リーはとても愉快な男で皆から JD(ジェイディ)と呼ばれ慕われていました。 米国の研究者は「グラント」という研究資金で生計を立てています。研究者の生活費、雇っている研究員の人件費、オフィスの賃貸料はすべてグラントから払われます。ユダヤ人のボスは複数のグラントをもっており、ポスドクと呼ばれる部下を10人ほど使って研究をしていました。優秀な部下の中にはグラントを持っている者もおり、フルグラントですと生活費を切り詰めれば数名の部下を養えます。

JD はハーフグラントを持っており自分の生活費は自分で賄えるものの部下を持つほどの資金力はありませんでした。後で聞いた話ですが、ユダヤ人のボスは外国人研究者が来ると見込みのありそうな者を直属の研究者として手元に残し、見込みのない者は部下に預けるのだそうです。私の場合は給料を払う必要がないため、給料が払えない JD とチームを組むようにしたようです。
JD はとても面倒見の良い男でアパートの手配や銀行口座の開設など、私が米国で生活できるようにといろいろ段取りをしてくれました。

アメリカで住んでいたアパート。イタリアみたいな外観だけどただのアパート。
日本の青木建設がバブル期にアメリカに進出して建てた。日本が不況のためか私たちの滞在中に
アメリカの不動産業者に渡ってしまった。そのあと、サンディエゴの不動産はどんどん、どんどん値上がりしていった。

ひととおりの手配が終わったあとレストランでいっしょに食事をしました。
話が研究の話になると自分の場合はモノクローナル抗体を作るだけでは不十分で、日本のボスからインパクトファクター10点以上の論文を提出するように言われている、と伝えました。
驚いたことに JD は「インパクトファクターって何?」と言います。
インパクトファクターとは一つの雑誌がどれだけ世界の研究者たちから引用されているかの目安だ、と解説しました。どうやら米国の研究者はこのような指標は誰も気にしていないらしいのです。

「で、10点ってどのぐらい?Journal of Biological Chemistry(米国生化学分子科学学会誌)は生化学の分野ではトップの雑誌だけど、そこに論文を発表すると何点?」
「8点だね。」
「じゃあ、免疫学でトップの Journal of Immunology(米国免疫学会誌)は?」
「同じぐらい。」
「10点以上ある雑誌ってどれ?」
「Journal of Experimental Medicine(実験医学雑誌)なら13点あるよ。」

ここまで話して、彼の表情がこわばるのがわかりました。そして最後にこう言いました。
「もしそれが本当に君のゴールだとしたら、自分がやっている研究について絶対にボスに話しちゃだめだぞ。」

トップジャーナル

「特にネイチャー、セル、サイエンス。この三つの雑誌に論文を投稿するときには絶対に誰にも口外するな。もしボスがそれを知ったら一瞬で顔が真っ赤になり、目が血走り、その研究は二度と君の手には戻ってこないだろう。」

研究の世界で働いている者にとってこの三つの雑誌に論文を掲載することは勲章です。
私たちのボスはスクリプス研究所の免疫学ビルディングで所長を務めるほどの大物でしたがそのボスでさえ、目の色が変わる、というのです。

それから私はアメリカを離れるまでずっと JDと一緒に研究することになりました。その間、たびたびボスに研究の進行具合を報告する機会がありましたが私たちはいつも失敗したデータばかり持ち込んで論文を投稿する寸前まで本当のことは決して報告しませんでした。こんなことを書くとなんてずるい人間なんだ、と思われるかもしれません。しかし、米国の研究現場では日常茶飯事なのです。

私が研究室に入ってすぐ、スクリプス研究所の倫理委員会から呼び出しがありました。行ってみると世界の各国、全米各地からスクリプス研究所にやってきた若手研究者たちが集められていました。
講師の男性は研究に関する倫理やマナーについてひと通り話し終わると「自分の研究を人に盗まれた経験のある人。」と出席者に尋ねました。
するとかなりの若者が手を挙げ、どのように自分の研究が盗まれたかを涙を流しながら語り始めました。講師の男性は出席者の心が落ち着くまで静かに話を聞いていました。これが当時の最先端の研究をしている米国の研究所の現場であったわけです。
同時期に米国で活躍した日本の研究者のコラムを読んだことがありましたが、彼もずっと偽の(というかいい加減な)報告をボスにしていました。しかしある日、報告を終わってボスの部屋から出ていこうとするといきなり出口のところで「ところで君は、本当はどんな研究をしてるんだい?」と背後から声をかけられて心臓が縮む思いをしたそうです。幸い、私はボスから思い切り低い評価を受けていたため米国を離れるまで本当の研究成果について話すことはありませんでした。

新居

研究室に入った当初は当たり前ですが住むところがありません。最初の 1 週間はホテル住まいで食事は外食でしたがこれは結構堪えました。結婚してまだ 1 年も経っていませんでしたが私の胃袋はすっかり妻に飼いならされてしまっていたからです。
JD の援助でやっとアパートに移ることができましたが私たちは生活に必要な物品を全て自前で揃えなければなりませんでした。当時、米国には「ターゲット」という名前の量販店があり、そこにはいつ壊れてもおかしくない怪しげな中国製の日用生活雑貨が山のようにおいてありました。アメリカと日本の小売店の大きな違いですがアメリカでは商品が 1 種類しかありません。たとえば日本でオムツを買おうとするといろんなサイズと「蒸れない」とか「漏れない」とか「臭わない」といった様々な長所のあるいろんなオムツが種類豊富においてあります。しかしアメリカでは全く同じ素材の同じ形の 1 種類だけのオムツが大量においてあるのです。違いといえば「S」「M」「L」ぐらいで製造元の会社が違っても中身は全く同じオムツが天井に届くまで積み上げられています。

よく行ったコンボイ通り沿いのターゲット。
洗うとまだらに色落ちのする T シャツを信じられないくらい安く売っていて、良くも悪くも米国と中国の底力が炸裂していた。

しかし、スーパーマーケットで一番驚いたのは返品システムでした。アメリカのスーパーマーケットでは商品を購入したあと、それが気に入らなければ無償で返品できるのです。クリスマス明けともなるとスーパーマーケットの返品コーナーには長蛇の列ができます。プレゼントを貰った人が気に入らなかったのでしょう。封を開けた商品を持っていくと係員が「何か問題でも?」と聞きます。すると客は「ナッシング(なにも)。」と答えます。これだけで返品終了なのです!こんなことでお金を返しちゃっていいのかお店!と心のなかで叫びましたが店員もお客も当たり前のような顔をしてました。

ターゲットでフライパンなどを購入したら次は布団です。サンディエゴを車で走っているとやたらと「Futon」と書いた看板が目に入ります。

サンディエゴのふとん屋さん。アメリカ全土がこうなのかサンディエゴだけなのか知らないが
大きなスーパーマーケットがある一方でこんな感じの個人商店が結構たくさんあった。
20 年近く前の話なので今はどうなってるのかわからないけど。。。

最初は冗談かと思いましたがこれは本当にふとん屋さんでした。
よくカリフォルニアは温暖だから、サンディエゴは常夏の国だから布団なんぞ必要がない、なんて人がいますがそれは真実ではありません。たしかに海岸ではパームツリーが立ち並んでおり、水着の白人がデッキチェアで寝転んでいます。でもよく見ると誰も泳いでいません。
せっかくサンディエゴに来たのだからと私も海岸に行ってみましたがその理由はすぐにわかりました。水が氷のように冷たいのです。
サンディエゴの海岸は直接外洋に面しており、そこにカリフォルニア海流という寒流がぶつかっています。このため、人の背丈を超える波が常に打ち付けていて海岸にはアザラシが寝そべっているのです。この寒流の影響でサンディエゴの気候は常に安定しており、冬は日本の 4 月上旬、夏は 5 月下旬ぐらいの気温です。海で泳いでいるのは同じ研究室のロシア人だけでそれ以外の一般人は泳いでいませんでした。

サンディエゴの海で泳いでいたロシア人ブラジミル・現スクリプス研究所助教授。
僕がベンチに座って太平洋を眺めていたら「日本が懐かしいのか?」と声をかけてきた。
あんな冷たい海でよく泳げるな、と聞いたら「新鮮な水は冷たいものだ。」と平気な顔だった。
海面から顔を上げるとアザラシと鉢合わせになるらしい。間違ってシャチに襲われないか心配していたが、2016 年のネイチャーイムノロジー誌に彼の名前を見たので少なくとも 2016年までは食われていない。

Google street view でみるアパートから車で 15 分ぐらいのラホヤの海岸。アザラシが噛むから手を出さないように、
という標識が立っている。娘を抱きながらこの海岸を歩いていたら海に落ちてしまった。妻が海岸沿いの雑貨店で
ウィンドーショッピングをしていたら「お前のベビーとハズバンドが海に落ちた。」とアメリカ人が教えてくれたそうだ。

そんな場所なので当然、布団なしでは夜眠れず、早速ふとん屋さんでベッドとマットレス、掛け布団と敷布団をオーダーしてアパートまで届けてもらうことにしました。
そして研究所に出勤してその晩、アパートに帰ったら妻が放心したようにしゃがみこんでいます。何かと思ったら「ベッドが届いた。」と。でもベッドなんてどこにもありません。よく見ると段ボール箱で包装された木の板がおいてあります。そう、アメリカではベッドは自分で組み立てるのです。急いでターゲットで「Do it herself kit(女の子でも独りできる優しい工具セット)」というのを買って来ましたが、その日から到着する全ての家具を自分で組み立てる羽目になりました。

アメリカは車なしでは暮らせません。

最初はサンディエゴ空港で借りたレンタカーで用を足していましたがレンタカーは割高ですし、免許も取らなければなりません。
私たちは早速車を買いにでかけました。
アメリカでとにかくびっくりしたのが中古車の値段が高いことです。
特に日本製の中古車の高さは目がくらむほどで10年落ちのシビックが100万円を超える値段で売っています。
アメリカ人は神様よりホンダの車を信用していて、日本の中古車と言っても日本で作られた日本車かアメリカ製の日本車かで値段が違うほどでした。隣の研究室に留学に来た日本人外科医は安さに目がくらんでアメリカ車を購入しましたが、研究室の事務のオバサンから「気でも狂ったのか?お前は本当に日本人か?」と叱られていました。 私たちがアメリカに到着後初めて入ったガソリンスタンドで「My car is on fire!」と叫んで走ってくるアメリカ人を見ました。見るとアメリカ車がエンジンから火を吹いています。幸い、スタンドに消火器があって火は無事消し止められましたが隣の研究室の外科の先生の車もそれに似たような信じられないトラブル続きで、アメリカ人がアメリカ車を買いたがらないのも仕方がないのだと思います。 また、燃費の良さも日本車がモテる理由です。アメリカは産油国であり、ガソリンは確かに安く日本の三分の一から四分の一です。しかし、買い物にしても遊びに行くにしてもとにかく距離が離れており、ひとつの用事を済ませるためのガソリン代は結局日本と同じぐらいかそれ以上かかってしまいます。

そんなわけで私たちも日本車のディーラーでアキュラ・インテグラを購入しました。

食事

アメリカに行くと食事に苦労すると思われるかもしれません。
しかし少なくとも私たちが留学した1990年後半ではほとんどその苦労はありませんでした。

当時、アメリカはすでに日本食ブームでアルバートソンズやボンズといった現地のスーパーマーケットでも普通に「Sushi」や「Teriyaki」が売っていましたし、パスタの横には現地生産の蕎麦が、お米はジャポニカ米によく似た「錦」という銘柄の米が売っていました。そしてスーパーマーケットの出入り口では海苔巻きをきれいに切ることができるスシカッターなる包丁を実演販売していたのです。それでも日本の食材が必要なときには日系のスーパーマーケットもありました。

当時ヤオハンと呼ばれたスーパーマーケット(現ミツワ・マーケットプレイス)。
アメリカでは手に入りにくい漫画が売っていて、とんねるずの「皆さんのおかげです」や月9のドラマを録画したビデオを有料で貸し出していた。今考えると明らかに違法だけど現地にはやっぱり日本語に飢えた人たちがいて、いつも盛況だった。

私たちが飢えたのは食事よりむしろ日本語でした。
西海岸は米国の中では東洋人の多い地域です。それでもネットがほとんど普及していない時代、現地で日本語を目にすることは殆どありませんでした。そんな私たち夫婦の一番の楽しみは文藝春秋。とにかく日本語がたくさん読めることが何よりの娯楽でした。

研究室

研究室は免疫学ビルディング半地下1階にありました。自分に与えられた研究スペースは奥行き50センチ、幅1.5メートルぐらいのスペースで実験をしながら昼食もそこで食べました。日本の研究室では考えられない生活でしたが実験をしながら食事ができるのは便利なのでつい放射能を使った実験をしながらその隣でランチを食べていました。

余談ですが私は結構大量の放射線を使用する実験をしていました。放射能(β線)の被爆を避けるため体の前にアクリルの遮蔽板を 3 枚たて、乳母車を引く老婆のような格好で実験をしていましたが、それでも放射線技師が私の背中に放射線カウンターを当てると針が振り切れました。
そんな実験をしていると体にも変化が現れ、米国滞在中の2年間で手の平にずいぶんとたくさんのホクロができてしまいました。子ダネも焼ききれて、もう子供なんかできない、と考えていましたが帰国後にあっさりと下の子供ができてしまいました。
ただ、大量の放射能を浴びたせいで出来が悪いです。
とりあえずスクリプス研究所の一角に自分の研究スペースを持ったわけですが、スペース的には日本と比べでずいぶん貧相でした。愛知医大の私の研究スペースは机も含めてその4倍ぐらいあったからです。
しかし JD に言わせると「業績の悪い研究室とはそういうものだ。」そうです。
「ここなんか、まだましだ。東海岸の毎年のようにトップジャーナルに論文を発表している研究室などは研究員の肘と肘、背中と背中がぶつかる距離で仕事をしている。今お前の座っている長椅子に 3 人が腰掛けている。本当に生産性の高い仕事をしようと思ったら、その人口密度じゃないとダメなんだ。」

さらに研究室を見渡すとおよそ日本では使われないような古い実験機材ばかりです。
例えば恒温槽。材料を 37 度に温める実験には無くてはならない機材ですが温度計をみると 39 度になっている。温度調節ツマミを回そうとすると慌てて JD が止めました。
「お前がそのツマミを回したとたん、その恒温槽はもう何度になるかわからない。
50 度になるか 19 度になるか誰もわからない。39 度なら上出来なんだ。ぜったいに触るな。」

なんとスクリプス研究所から発表される研究論文は「37 度で 1 時間反応させた」と記載されていますが、実は 39 度で反応がおこわれていたのです。

なかに水を入れて 37 度に温める恒温槽。
24 時間稼働していて、中の水が腐らないようにときどきメンテナンススタッフのジョンが水を入れ替えていた。
ジョンはとても親切な男だった。気さくに話しかけてくるので適当に相槌をうっていたけど南部訛りがひどくて何を喋っているか2年間ついにわからなかった。

他にも冷却機能のない遠心分離機、昭和の香り漂う滅菌装置などおよそ一流の研究室というよりは第二次大戦中の潜水艦の中のような体裁です。
たまに同じ免疫学ビルディングで大きな研究費を獲得した研究室があると、新しい研究装置を買ってこういった古い装置を捨てるのでお下がりをもらうのです。
しかしそれらの中古研究機器は常に誰かが使っていてメンテナンススタッフもついているためずっと壊れずに稼働していました。

システムの力(ちから)

スクリプス研究所で働いてみてすぐに気がついたことがあります。抜群に働きやすいのです。
例えば、日本でひとつの実験をしようとすると研究に必要な材料を問屋に注文するところから始めなければなりません。材料が届くまでに 1-2 週間かかり、やっと実験を始めたら研究機器が故障していて使用できなかった、などということが頻繁にあります。
日本の研究室では私学助成で買った1億もする高額な研究機器が並んでいましたが、それを使用する研究者もほとんどおらず、メンテナンスするスタッフもいないためイザ使おうとするとだいたい壊れています。助成金には機械を買うお金は含まれていますがメンテナンススタッフを雇うための人件費は含まれていないからです。

スクリプス研究所初代所長リチャード・ラーナー
大胆でエゴイスト。
スクリプスを世界一流の研究室に育て上げたのはこの男が造ったシステムの力(ちから)だ。

しかしスクリプス研究所では全てのシステムが躍動していました。実験材料は配達を待つ必要がありません。
各フロアには「ベーリンガーフリーザー」「ギブコフリーザー」と呼ばれる冷蔵庫がおいてあり、必要な試薬をとったあと伝票に書き込んで冷蔵庫の横にある箱に入れるだけです。田舎にある野菜の無料販売所のような仕掛けですが、こんなレトロな仕組みのおかげで納期を気にする必要なく研究者は好きなときに実験を始めることができます。
また、全ての実験機器にはメンテナンススタッフがおり、研究者が実験に使おうと思うと適切なアドバイスが得られます(また、研究者が横着な使い方をしないか見張っています)。そして全ての機械がフル稼働しており、実験で使おうと思うと順番待ちのノートに時間と自分の名前を書いておかなければなりません。

そしてこれが一番すごいことなのですが、いろんな研究室にいろんな実験のエキスパートがいるのです。
我々は一つの論文を書くときにたくさんの実験とそこから得られたデータを用意する必要があります。私が留学した1990年代ですら分子生物学の実験手法は猛烈な分量があり、実験の指南書だけでも電話帳3冊分はありました。日本でひとつの論文を書き上げるために10個のデータが必要だとすると10通りの実験系をゼロから組み立てなければなりません。スクリプス研究所では自分が不慣れな実験系があると必ず何処かにその実験に精通したスペシャリストがいるのです。そのスペシャリストには必ず友達がいますから私の友達に聞いて伝手を辿っていくとその人にたどり着きます。友達の友達のそのまた友達にお願いしてその人に実験を手伝ってもらうことができます。実験をやる人にとっては毎日やっている実験が少し増えるだけのことですから「論文に君の名前をのせてあげる」と言えば気軽にやってくれます。こうして10 個のデータが必要だとするとそのうちの半分ぐらいは他人にやってもらうことができるのです。

研究の世界では自分と同じテーマで、自分と同じゴールを目指して同じ実験をしている人が常に何人もいると言われています。そうなると良い業績をあげるために大切なことはゴールに到達するまでのスピードです。スクリプス研究所ではこのような競争に打ち勝つ仕組みがあり、それは偶然できたものではなく創始者のリチャード・ラーナーの構想によって造られたシステムの力(ちから)なのです。スクリプス研究所に特別優秀な研究員が集まっているわけではありません。夕方 5 時になるとみんな集まって1ドル札を出し合ってコロナビールを飲んでいました。しかし研究スタッフを支える優れたシステムがあるためにスクリプス研究所は昔も今も一流の研究所なのです。

研究

米国上陸以来悪戦苦闘の毎日でしたがそれでも2週間も経つとボチボチ本腰で研究を始めなければなりません。

私の研究は当時大ブームとなっていたMAPキナーゼでした。
MAPキナーゼとはがん細胞が細胞増殖するときに細胞内で活発に活動する酵素です。
例えば現在肺がんの中で最も多いのは肺腺癌ですが肺腺癌の約半数は上皮成長因子受容体(EGFR)の突然変異によるMAPキナーゼの異常な活性化が原因だと考えられています。したがってMAPキナーゼの活動を抑えるような薬を発明すれば有力な抗がん剤をつくることができる(=莫大なお金が儲かる)と考えられていました。

私が共同研究をしたJDは世界で初めてMAPキナーゼのひとつ「BMK1」を発見(遺伝子を発見することをクローニングといいます)しましたが、その BMK1がいったい細胞の中で何をしているのかわからない状況でした。BMK1の役割がなぜ解らなかったのか、理由は簡単で当時はまだ BMK1 を人工的に活性化(元気にすること)ができなかったからです。BMK1の機能を知るために活性化がなぜ必要なのかというとBMK1は酵素だからです。酵素は細胞の中で普段は活性化されていない状態(元気のない状態)で存在します。しかし細胞に何らかの刺激が加わると活性化され、元気になった酵素の影響で細胞は変化します。その変化が何なのか、それは酵素によってバラバラですが、MAPキナーゼのような酵素が活発になると細胞が増殖したり、形態が変化して分化したり、状況によっては死んでしまったりすることがわかっています。当時は BMK1の活性化に成功していなかったのでBMK1が細胞にどのような影響を与えるのか解らなかったのです。

私が渡米して最初にした実験はこのBMK1を人工的に活性化する実験でした。そのため当時、BMK1と同じように何の役割を果たしているかわかっていなかったMEK5という蛋白の遺伝子を持ってきてその遺伝子に人為的に突然変異を起こさせてMEK5(D)という新しい蛋白を作りました。 そのMEK5(D)とBMK1を一つの細胞のなかで大量に作り出してやったところ見事BMK1は活性化されました。

BMK1をMEK5(D)とともにひとつの細胞の中で共発現するとMEK5(D)によってリン酸化されたBMK1は活性化BMK(p-BMK1)に変化して電気泳動の中を飛び跳ねる。
このような激しい活性化がなぜおこるのか、後に詳細に研究された。
その結果、MEK5 によって活性化された BMK1 が自分自身を更に活性化するために自分で自分をリン酸化することがわかった。
今日ではBMK1の過活性化はBMK1が細胞核に移行するために必要不可欠であると考えられている。

このデータを見たとき、びっくりして椅子から転げ落ちるかと思った、と後にJDは私に語りましたが、世界の研究者が乗り越えられなかった壁を乗り越えた瞬間でした。にも関わらず、当時の私は本当に実験の初心者でしたのでその有り難さもわからず「活性化の実験をしたのだから当たり前。」ぐらいにしか考えていませんでした。

まさかこの現象が後に「BMK1の過活性化現象」という名前を与えられ、なぜ、何のためにこのような激しい活性化がおこるのか、何本もの医学論文が発表されることになるとは思いもしませんでした。

このあと、私の人生にはろくなことがありませんでしたので恐らくこの実験で私は自分の人生の運を使い切ってしまったのかもしれません

論文

実験が佳境にはいってきた6月妻が出産のために日本に帰っていきました。米国で出産すると子供にグリーンカードがもらえるということで周囲からは米国での出産を勧められましたが初産の妻にストレスを与えたくなかったのです。

8月に娘が生まれ、12月にふたりになって帰ってくるまで私は独り暮らしをすることになりました。すると出るわ出るわ良いデータが次から次へと生まれてくるではありませんか。妻がいないとこれほどまでに研究が捗るとは思いませんでした。
妻がいないと食事を作ってもらえません。だから決まった時間に家に帰る必要がありません。服を着替える必要もありません。風呂に入る必要もありません。余った時間は全て仕事に使えます。
研究助手のルイスおばさんから「Change your T shirt!(いい加減、服を着替えろ!)」と怒鳴られましたが、自分の人生の中でこの6ヶ月間ほど仕事がはかどった時期はありませんでした。
おかげで留学して1年で概ねBMK1が細胞のなかでどんな役割を果たしているのか明らかになってきました。

我々が提唱した細胞内における BMK1 の役割。 細胞に栄養を与えると MEK5が活性化され、それによってBMK1が活性化する。 活性化したBMK1は細胞質から細胞核に移行し細胞核にある MEF などの転写因子を活性化して細胞の遺伝子を活性化する。

それまで世界に三つしかなかったMAPキナーゼ経路(ERK1/2、JUNK、p38)に新しくBMK1経路が加わったわけです。
私はこの研究成果をまとめて当時(今もですが)超一流の科学雑誌であった「セル」に投稿しよう、と JD に提案しました。しかし、JD は同意しません。セルはファミリージャーナルだから研究成果を横取りされる恐れがある、というのです。
確かにセルは一流雑誌としての地位を確立するために多くの有名研究者の力を借りてきました。セルの表紙をめくると「ミニレビュー」というコーナーがあります。そこでは世界的に著名な研究者が世界の生物学研究の最先端について分かりやすく、かつ面白く解説しています。それらのレビューを掲載する見返りにセルはそれらの研究者の論文を優先して載せています。そのような「コネ」がきく雑誌のことをファミリージャーナルとよび、セルに論文を載せたいのであれば「セル・クラブ」に所属する研究者の元で研究をするのが最短距離と言われていました。もちろん、我々が働いていた研究室はセル・クラブではなかったため論文が受理される確率は低く、また最悪の場合、論文を審査するセル・クラブの研究者によって我々の研究成果を横取りされてしまう可能性はありました。
しかし、いくら実力のある研究室とは言え、我々の研究成果を再構成するにはかなりの時間と労力がかかります。論文を投稿して受理されなかったり査読者から無理難題をふっかけられるようであれば論文を取り下げて別の雑誌に投稿することもできます。そう言ってJDを説得しましたが彼は首を縦に振りませんでした。少し怯えているようにもみえたので、おそらく彼がまだ一度もトップジャーナルに論文を投稿したことがないという経験不足も影響しているようでした。もちろん、私もトップジャーナルに論文を発表した経験などありませんでしたし、もうそろそろ留学資金も底をつき始めてきたところです。これ以上彼と議論をしている余裕はありませんでした。

結局論文はセルと同じフォーマットの雑誌「EMBO Journal」というヨーロッパの分子生物学の雑誌に投稿することに決めました。
当時のEMBO Journal はインパクトファクター13点以上ありましたので論文が掲載されれば日本に帰ることができます。我々は急いで論文の校正にとりかかりました。私もJDも英語のネイティブスピーカーではありません。そこで同じ研究室で友人のカナダ人リチャードに校正を依頼しました。リチャードは私が書いた論文を跡形もないぐらい格調高い英文に書き換えてくれました。さらにその論文をボスのユルビッチにチェックしてもらい、論文は1997年の6月に投稿されました。

カナダ人リチャード・I・タッピング
現在はイリノイ大学で微生物学の教授をしている。
僕はアメリカ人よりカナダ人とかイギリス人のほうが好きだった。
アメリカ人は腕力にものを言わせるような、すぐに居丈高になるようなところがあって苦手だった。
おなじ人種なのになぜかカナダ人のほうがつきあいやすい。
「メープルリーフ州」の人たちはいい人たちだったよ。

それから1ヶ月ほど過ぎて出版社から論文が帰ってきました。

科学雑誌では論文を掲載する前に投稿されてきた論文が掲載に値するクォリティかどうか数人の科学者にチェックしてもらいます。そのような科学者のことを「査読者」というのですが我々の論文は 3 人の査読者のうちひとりからクレームがついた、というのです。
見てみると「英語があまりにひどい。投稿者は論文を投稿する前に英語を母国語とする人間に論文を直してもらうこと。」とありました。
どうやらカナダ人やユダヤ人の英語はイギリス人からすると我慢のならないものだったようです。
それから2ヶ月後、論文は無事受理され晴れて日本に帰る資格を手に入れることができました。

日本を発ってから1年半が経っていました。

ハン

渡米して初めて論文を投稿したころ、私の手元に一枚のデータがありました。
そのデータはいかにもエキセントリックで、例えて言うならば如何にもネイチャーが好みそうなデータでした。
ひと口にトップジャーナル、といってもネイチャーとセル、サイエンスでは好む論文が違います。
例えばサイエンスは投稿された論文が重要な発見である、という場合には喜んで掲載します。しかしネイチャーにとっては論文が学問的に重要かどうか、ということは比較的どうでも良いことなのです。なぜならサイエンスは米国の学会誌なので雑誌が面白くなくても読者は(半ば強制的に)雑誌を購入してくれます。
それに対してネイチャーは商業誌なので掲載する論文が面白くなくては誰も買って読んでくれません。

例えば「火星探査機が火星に到着して調査をしたところ 99%の可能性で生物は存在しなかった」という論文をサイエンスは好みます。しかし同じ内容の論文をネイチャーで発表しようとすると「火星を調査したところ、なんと1%の可能性で生物が存在していた。」と書かなければならないのです。 その時私が持っていたデータは如何にも後者の、ネイチャーの読者の好奇心をかきたてるようなそんなデータでした。

早速論文の作成にとりかかりましたが、トップジャーナル向けの論文であるだけにボスに相談することはできません。かといって相棒のJDに相談して尻込みをされても困ります。そこで私は同じ研究室のハンという男に相談してみることにしました。
なぜハンに相談したのか?それは当時私が留学していたユルビッチ研究室のなかで唯一ハンだけがネイチャーに論文を発表したことのある研究者だったからです。
ハンはMAPキナーゼ p38 の研究者として当時破竹の勢いでした。トップジャーナルに次々と論文を発表し、グラントも獲得して複数の中国人研究者を雇用しており、ユルビッチ研究所の中で半ば独立した存在でした。この男なら私の研究データの真価がわかるに違いありません。

ユルビッチ研究室のエース、ハン(Han Jiahuai)
ハン(Han Jiahuai)は世界で初めて 3 番目の MAP キナーゼ p38 のクローニングに成功して当時その分野の権威となりつつあった。
紅衛兵だったという噂があったため「造反有理」と紙に書いてみせたら昼飯を口から吹き出していたので本当なのかもしれない。
当時はもう少し髪があった。

そこで「このデータどう思う?」とデータを1枚だけ見せてみました。
論文の全てを見せるにはあまりに危険な相手です。あえて一切の説明を省きデータのみを見せました。するとハンの顔は一瞬でこわばり、激怒した彼は立ち上がって言いました。
「このようなデータは決して良い雑誌には受理されない!こんなデータは我々だって持っている。ましてネイチャーは絶対に・・・。」
ここまで言ってハンは急に黙ってしまいました。

そう、私はこのデータをネイチャーに投稿するなんてひと言も言っていないからです。

その時ハンにみせたデータ。
子宮がん細胞の細胞周期を現したデータで癌細胞中に大量の不活性型BMKI(BMK1(AEF))を産生させると癌細胞の分裂が停止する。何も説明しなかったがハンはひと目みて何を語るデータか見抜いた。

誤解のないように説明します。
ハンは紳士です。科学者としても家庭人としても中国人の同僚を束ねる立派な男でした。私はそれまで彼が大きな声をだしたり動揺したり慌てたりするところを見たことがありません。
そのハンが、私のデータをみて、顔を真っ赤にして目を血走らせて「ネイチャーは受理しない。」と言い切るのです。
私はこの時自信をもって論文をネイチャーに投稿することに決めました。

ありがとうハン。僕は今でも君のことがとっても大好きだ。

続研究の話(大量の放射能を浴びた息子のその後)

2013年の春、私は息子が通っている塾の教師と膝を突き合わせて面談をしておりました。「息子さん、南山中学を受験する、って言うんですよ。」先生は上目遣いで私を見ています。
「わかりました。」と答えると「いいんですか?本当にいいんですか!?」とびっくりされました。後で聞いたことですが、塾に通っている男の子たちの、ほとんどの親は東海中学志望で、南山中学をすすめると難色を示すそうです。特に私のように、東海高校卒、名古屋大学医学部卒という親はタチが悪く「俺の子供に南山に行け、というのか。」とか「こんなことになったのは塾の指導が悪い。」とか言って暴れるのだそうです。しかし、私の場合、そんな文句をいって教師を困らせる気にはなりませんでした。
息子よ、許せ。お前の出来が悪いのは、お前の努力不足のせいでも、塾の指導が悪いせいでもない。父が昔、お前に大量のβ(ベータ)線を浴びせたためなのだ。

名古屋にある私立東海中学校・高等学校

東海大学の付属高校か?とよく聞かれるが、東海大学とはなんの関係もない。医学部進学者が多いことで有名な学校で、ここの生徒が会話をするとき、名古屋大学といえば、名大医学部のこと、京都大学といえば、京大の医学部を指していて、他の学部のことを話しているのではない。特に理系A群と呼ばれる進学クラスに行くと、工学部や理学部に行きたい、という生徒は極めて稀な精神疾患のような扱いを受けることになる。ただ、教師たちが医学部進学に熱心かと言うと、むしろ逆で、この学校の進路指導は、いかにして医学部を諦めさせるか、ということにフォーカスしている。しかし、生徒たちは頑として譲らない。最近、東海高校の教師のインタビューを見かけたが「医学部進学を勧める、ということは特にしていない。我が校の生徒についても、特に優秀と感じたことはない。ただ、分不相応な夢を描いている生徒が多い。」ということで、僕が卒業した40年後も、校風は変わっていないようだ。

転職

大学で研究していたとき、しばしば私は、大量の放射能を扱う実験をしていました。
どのぐらいの量か、というと、私が実験をする日には、「愛知医大に許可された放射線の極限量を1日で使い切る実験が行われるため、本日は放射線を扱う実験はできません。」という通達が出て、他の医師の実験に支障をきたすほどでした。こんな実験を日常的に繰り返していたので、子ダネも焼ききれて、もう子供もできないだろう、と考えていましたが、そんな中、あっさりと長男ができてしまいました。その後息子を観察していましたが、幸い、特に目立った障害もなく、元気に大きくなっていきました。ただ、成績はどうも芳しくなく、どう考えても国立の医学部に合格できそうな様子はありませんでした。すると将来、息子が医者になりたいと言い出したときには、私立医大に進学させなければなりません。しかし、私が大学から頂いていた給料では、とうてい私立の医学部に進学させられそうにはありませんでした。もう少し稼げる商売はないものか、と知恵を絞り、在宅医療を始めることにしました。

ブルーオーシャン

大学の研究者が終末期医療に転職するのは突飛なことのように思われるかもしれませんが、私としては日頃の心がけを実践したに過ぎません。
心がけとは
1)自分のやりたいことより、世間の需要を優先すること
2)できるだけ競争相手の少ないブルーオーシャンで競争すること、
の2点です。科学の世界には流れがあり、そこで生活している人たちは常に知的好奇心が満たされることを生きがいにしています。良い科学雑誌に自分の研究論文を載せるためには、あえて自分の興味は押し殺して、大衆がどんなストーリーを聞きたがっているのか、それをイメージして論文を書くことが必要です。最近、日本の研究者の研究論文が、メジャーな雑誌に掲載されなくなってきた、と嘆く研究者が多いのですが、日本の研究者はえてして、大衆の興味より自分の興味を優先する傾向があるので、そんな事になりがちです。また、日本の研究者は、昔から存在する、確率されたテーマを扱う傾向があります。たくさんの研究者が取り組んでいる話題のほうが、注目が集まりやすいような気がするのですが、これは裏を返すと、たくさんの競争相手がいる、ということで、そのようなレッドオーシャンにかかわる研究をしていると、多少優秀な研究者も日の目を見ないことが多いのです。
私が在宅医療を始めた2006年当時、在宅医療や終末期医療をやりたい、という医者はほとんどいませんでした。そのいっぽうで高齢化社会はどんどん進行して、終末期医療の需要はうなぎのぼりでしたから、需要と供給の2つの点を考慮した場合、在宅医療が最も稼ぎやすい商売、という結論に行き着きます。

僕の転職は、スターウォーズ風に言うと、ジェダイの騎士がダース・ベイダーに転職したようなものだった。
正義のために戦っていたジェダイの騎士が「こんな安月給で体張ってられるか!」とある日、ダース・ベイダーに転職して帝国から厚遇されたという、あれは、確かそんなお話だった。ちなみに僕はダース・ベイダーが大好きだ。皇帝を暗殺して、自分が帝国の支配者に成り代わり、息子に跡を継がせたい、と一生懸命頑張っている姿は、涙なしには見られない。息子のルークといえば、革命軍に身を投じたり、デス・スターを破壊したり、親父の足を引っ張ってばかりいるのに。

南山中学

話を息子の中学受験に戻します。親としては、当然、転職までして進学させるのだから、できるだけ医者になってもらいたいし、私どもの住んでいる地域の中で、その可能性が一番高い学校は東海中学校でしたから、東海を受験してはどうか、と水をむけたのですが、息子は意に介さず「父さん。俺の模試の成績を見た?合格可能性20%だよ。これで受験する人間なんているの?」と説教され、諦めざるを得ませんでした。
ちなみに私自身は一発勝負にめっぽう強い体質で、これまで受験してきた学校は、だいたい合格可能性20%で合格してきたので、20%あれば十分、と考えているのですが、子供に無理強いはできません。東海地方にお住まいではない方のために、南山中学校について簡単に説明します。
名古屋に南山大学というカトリック系の大学があり、南山中学校は、その大学の付属高校にあたります。南山大学は、首都圏でいうところのMarch的な扱いで、この大学への推薦枠が大量にもらえることから、付属の中学校は進学先として人気です。共学の学校ですが、校舎は男子部と女子部に別れており、普段の授業も、学校の行事も別々に開催されています。男子部、女子部ともに六年一貫教育の中学校・高校ですが、女子部の進学成績が恐ろしくすばらしく、東海地方では名実ともに女子教育の頂点に立つ学校といえます。それに対して男子部は、今ひとつ冴えません。理由は簡単で、東海中学と入試日が一緒なのです。男子生徒は東海中学と南山中学の併願ができないため、選択を迫られると、成績の良い生徒ほど東海へ、諦めの良い生徒ほど南山へ来ます。その結果、たとえば、名大の医学部では、東海高校卒が毎年1学年30数名、南山高校女子部卒が10数名、南山高校男子部卒が1名、というぐらい進学成績に差がついてしまいます。

南山中学校・高等学校女子部
僕がこの学校の生徒を初めて見かけたのは、高校時代に鶴舞図書館で勉強をしていたときのことだった。同じ机の向かい側に、ジャンパースカート風の制服を着た女子生徒が二人座ったのだ。友達同士で来たのだろう、勉強しながら、時々顔を見合わせてクスクス笑っている。二人ともちょっと可愛かったし、そんな度胸もなかったが、あわよくば話しかけてみようかと、少し見栄を張って、僕も一生懸命勉強するふりをした。しかし、二人とも勉強に夢中で全く顔をあげない。イルカの息継ぎのように、1時間に一回ほど顔を上げてお互いの顔をみてクスクス笑っているだけだ。結局6時間ほど勉強を続けて、ボロ雑巾のようにくたびれ果てた僕は、二人を残して帰宅した。

入試

さて、南山中学に志望校を定めたのは良いのですが、肝腎の模擬試験の成績が奮いません。小学校6年生の夏休みの段階で、合格可能性60%程度。これがどれだけ危機感のある数字か、中学入試が常態化している首都圏住まいのお父さん、お母さんならわかると思います。志望校のランクを落として、それでもなお合格できないのであれば、もはや私立中学に通わせる必要すらないかもしれません。しかし成績はパッとしないまま、秋になり、受験の日が近づいてきました。そんなある日、息子が模試の成績を持ってこないことに気づきました。本人に聞いても、「試験の結果はまだ返ってきていない。」と言うのです。ふと彼の足元のゴミ箱に目をやると、見慣れた紙片が埋もれています。そのクシャクシャの紙を引っ張り出して見てみると、なんと、南山中学合格可能性20%と書かれた模試の成績表でした。うすうす感づいてはいましたが、どうも、追い込みが効かない性格らしく、受験の日が近づくに連れ、周りの受験生に追い抜かされているのです。
とりあえず喝を入れ、その後の模試の成績は若干盛り返しましたが、結局ほとんどそのまま、中学入試に突入してしまいました。最後には合格したところをみると、彼も私の一発逆転の体質を受け継いでいるのかもしれません。

南山中学校・高等学校男子部
全国に進学成績が発表されるときには、南山高校と標記されるが、事実上女子部とは別の学校といっていい。
日頃全く交流がないが、たまに女子部の生徒がふらりと一人で男子部を訪れることがある。冷水機が男子部にしかないため、冷たい水を飲みに来るのだ。女子一人で男子しかいない学校に乗り込んでくる胆力もすごいが、男子は男子で、担任の教師から、女子部の生徒には声をかけないように指導を受けているので、あっけにとられて見守るしかない。壁に張り付くようにして避ける男子を見下ろしながら、クジラのように水を飲んで帰っていくそうだ。

入学後

保育園に通っていた頃から気づいていましたが、息子は世渡りが上手です。
用務員さんによると、特に人間関係のトラブルから身をかわすのがうまいようで、小学校でも授業参観に行くと、いつも一番うしろの席に座っていました。教師から見ると、一番目を離しておける存在なのでしょう。
中学校に入学してからも、先生の評価は概ね良く、同級生とのトラブルなど聞いたことはなかったのですが、彼の成績表を見ていると気づくことがありました。英語や数学、理科や国語と言った主要科目以外の成績が妙に良いのです。たとえば南山高校はカトリックの学校なので、教科に「神学」という教科がありますが、これが評価10。他にも家庭科とか、音楽なども成績がよいのですが、おかしいと感じたのが体育です。運動会に行くと、かけっこはドベなのに評価はいつも7とか8なのです。
「南山大学の神学部からスカウトされるぞ。」と言ってからかっていましたが、大学入試に必要なのは英語や数学なので、これではまずい、と感じました。中学入試の様子から、追い込みが効かない体質だということはわかっていましたので、それでは日頃の授業を大切にしてもらおうと、学校の授業をサポートしてくれる塾に通わせることにしました。このような塾は進学塾とは異なり、南山中学校・高校に特化しています。定期試験の過去問が保管してあり、担任の先生がどのような出題をしてくるのか、対策をたてることができました。
それで高校1年生までは上手くやってこられましたが、高校2年生となると、そろそろ進路を考えないといけません。将来何がしたいのだ、と聞いても、特にやりたい仕事があるわけでもなさそうでした。日本全国の高校生も、だいたいそんなもんでしょう。私自身も高校時代に医者になろうと決意していたわけではありません。ただ、周りの生徒がみんな医学部に行くって言うから流されただけです。あと、白い巨塔の財前五郎(田宮二郎)がメチャかっこよかったから。でも、特にやりたい仕事も決めていないのなら、親の職業を継ぐのがふつうです。そう息子を丸め込んで、とりあえず学校指定の模擬試験を受けさせることにしました。

E判定

試験の結果は悲惨でした。国立の医学部と私立の医学部を志望校にしましたが、どれもこれもE判定です。私が医学部を受験した頃には偏差値が30ぐらいだった私立の医学部も、今では軒並み偏差値60以上になっているからです。まだ高2の春だから、現役生は伸びるから、と言われても、中学受験の様子をみると、これからどんどん成績が良くなるようには思えませんでした。それにE判定というのは底が見えません。D判定ならば、合格からは程遠い成績としても、偏差値が5足りないとか10不足しているとか、ダメさ加減が見えてきます。しかしE判定は、果たして合格までにどのぐらいの距離が離れているのか、距離感がつかめないのです。どうしたものか途方にくれていると、医師会の先生に「メディカルラボ」という医学部専門の予備校が良い、と教わりました。その先生の息子さんは、自己評価が低く、自分の成績では医者になれないと思いこんでいたそうです。でも、メディカルラボに連れて行ったところ、塾の先生がとてもおだて上手で、やたらと褒めてくれるので、すっかり調子に乗ってしまい成績がどんどん良くなって、とうとう私立の医学部に合格したそうです。「経営者と飲んだことがあるけど、めちゃくちゃ変な奴だったぞ。」と脅かす先生もいましたが、私はむしろ、それが気に入りました。優れた起業家というものは、心が歪んでいるものです。生まれや生い立ちが不幸で、なんとなく常に飢えていて、乾いていて、世間の常識からずれている、そういうものなのです。世間の常識から乖離している、その差の分だけクリエイティビティ(創造性)が生まれ、飢えている分だけアグレッシブ(攻撃的)になることができるのです。話をお聞きして、とても気に入ったので、早速息子をメディカルラボに連れて行くことに決めました。

メディカルラボ

その予備校は大名古屋ビルヂングの15階にありました。面談室に通されると、JRセントラルビルのツインタワーが正面にそびえ立ち、テラスで食事をしている人の一人ひとりがまるでドールハウスの人形のようによく見えます。中小企業ではありますが私も経営者なので、こういうときには、すぐに算盤を弾いてしまいます。このフロアを借り切るのにいくらかかるのか想像もつきませんでしたが、どこに教室を構えるのか、ということは教育の質とは直接の関係がないため、メディカルラボのブランドとアクセスのためにだけ、膨大な支出をしていることが分かります。医学部受験には、そんなお金を払っても余りあるほど、十分な需要と客単価がある、と見込んでいる経営者の大胆さとしたたかさを感じました。オリエンテーションには、私たち家族の他にもうひと組、お母さんと息子さんが来ていましたが、やがて子どもたちだけがどこかに連れ去られ、親には授業料やシステムの説明が行われました。授業料は現役生が年間400万円、浪人生が800万円、夏期講習や冬期講習は別に費用がかかります。授業は現役教師によるマンツーマンで、一人の生徒が指導を受ける教師は一人だけに固定されています。複数の教師から異なった指導を受けて生徒が混乱しないようにするためです。授業料だけを見ると、一般の方は高いと思うかもしれません。しかし、私のような事業を営む人間からすると、教育費は最も効率の良い投資です。まず、贈与税も相続税もかかりません。医業には難しい入試、国家試験、大学の高い授業料といった参入障壁があり、いったん医師免許を取得すると、働き口には困りません。現代社会はモノであふれかえっており、どんな人にも欲しいものはだいたい、手にはいります。そのような社会において、産業(インダストリー)はもはやあまりニーズがなく、健康で長生きがしたい、というヘルスケアへの需要は今後ますます増えていくと思います。電気自動車と100歳まで若々しく元気でいられる体と、あなたならどちらが欲しいですか?医師免許はそのような社会において、やはりプラチナライセンスと言わざるを得ません。また教育は、中小企業にとっては倒産対策にもなります。将来、何か突然のトラブルで病院が倒産し、私が自己破産したとしても、私と息子が医師免許を持っている限り、再起は簡単です。その意味で、年間1000万円の授業料は高くもなんともないのです。

名古屋駅前にある、大名古屋ビルヂング。
僕が代々木ゼミナールに通っていたころ、名古屋駅はそれほど人通りもなく、所々にホームレスが寝ていて、建物といえば、大名古屋ビルヂングという、屋上がビアホールになっている古びたビルが建っている、それだけの場所だった。あれから40年経ったんだなぁ。

推薦入試

やがて子どもたちが帰ってきました。どうやら、基礎学力を調べるために試験を受けていたようです。息子の場合は高校2年生ですから、中学生から高校1年生までの幅広い内容が出題されました。採点はその場で終了し、彼の現在の立ち位置が示されました。それによると、息子は中学のときに勉強したことを忘れているようです。都度ごとの定期試験はちゃんと勉強していたと思うのですが、過去に勉強した内容は過去に置いてきてしまって、現在の成績に少しも生かされていません。これでは学校の勉強をいくらやっても、受験には対応できず、中学の内容から復習する個別指導が必要であることを痛感しました。こんな親は珍しくないのでしょう。塾の先生は、過去に南山男子部から愛知医大に推薦入試で合格した受験生の成績を見せてくれて、「息子さんより悪い成績でも合格しています。」と、今ならまだ間に合う的な励ましをしてくれました。早速入塾申込みをしましたが、そのときに強く印象に残ったのが推薦入試の制度です。推薦入試は一般推薦と指定校推薦に分かれ、どちらも医学部の入試では無条件で合格というわけにはいかず、一般入試に比べて倍率が低い程度の競争試験です。ただ、推薦入試は受験できる年齢層が限られており、競争相手が現役生だけ、という大学が珍しくありません。医学部入試に的を絞って1年間勉強を続けた浪人生と競わなくて良いというのは現役受験生にとって大きなメリットで、合格ラインが偏差値65の大学でも、一般推薦だと偏差値58、指定校推薦だと偏差値55まで最低合格ラインが下がってきます。この制度を活用しない手はありません。

内申点

メディカルラボに通い始めたところ、さすがに噂に聞いた褒め上手、息子の成績もかなり良くなりました。そして、ついに模擬試験で私立医大のD判定を取るまでになります。ところが、そこからは、なかなか成績が伸びませんでした。成績が伸びない理由は明らかで、勉強時間が足りないのです。私が大学受験のときには、学校から帰ってきて8時間、学校のない日は少なくとも12時間は勉強していたと思います。今から考えると、そんなに長時間ダラダラ勉強していて、効率が上がるのか、と突っ込みたくもなるのですが、とにかく机の前には長く座っていたと思います。今も昔も医学部受験は甘くはないのです。学校で勉強をして、塾に行って、宿題を片づけて、そこまでは医学部受験生なら当たり前の話で、さらにその上に何を積み上げるかで自分の未来が決まります。息子も頑張って勉強していたとは思うのですが、3年生の春ともなると今まで勉強していなかった同級生も勉強を始めますし、浪人生も合流してくるので、成績の伸び悩む日が続きました。そのような中、医学部の指定校推薦の話が舞い込んできたのです。指定校推薦の枠をくれたのは、聖マリアンナ医科大学でした。名前だけ見ると女子の大学みたいですが、共学校です。南山高校とは同じカトリック系の学校で、その繋がりで舞い込んできた話ということでしたが、女子部の進学成績がなかったら、いただけなかった枠だったと思います。指定校推薦は、合格したら、その大学に必ず入学しなければなりません。推薦枠は女子部にも回りましたが、女子部の方では希望者がいない、ということで、男子部に枠が回ってきました。推薦を受けるには条件があります。内申点は4.0以上、推薦枠1校2名まで、受験資格は現役生のみ。試験は英語100点、面接200点、小論文100点。ということは、ほとんど学力は不要で、愛想の良い生徒が合格する、まさに我が子にうってつけの入試ということです。あとは内申点ですが、幸い神学とか家庭科とかの高点数のおかげで4.4もあります。渡りに船とばかり、早速申し込むことに決めました。ちなみに南山高校は南山大学の指定校枠もあり、かなりの生徒が推薦で大学へ進学します。そのような学校のなかでは内申点は厳密に管理されており、0.1点の違いで推薦をもらえたり、もらえなかったりします。そのためか、聖マリアンナ医科大学の推薦入試枠にはかなりの生徒の応募があったそうですが、内定会議で推薦をいただけたのは息子だけだったようです。

神奈川県川崎市にある聖マリアンナ医科大学(聖マリ)
6年間の学費は3千数百万円、初年度納入金は700万円。私立医大のなかでは平均より少しだけ高め。合格通知があってから決められた期日内に入学金を振り込まないと合格が取り消されてしまうため、私に代わって妻がUFJ銀行へ振り込みに行った。ところが「聖」も怪しい、「マリアンナ」も怪しい、「聖マリアンナ」でますます怪しい、ということで、振り込め詐欺と間違われてしまった。別室に連れ込まれ、「奥さん、そんな大学、無いんですよ。」「いえ、ありますから、お願いですから振り込ませてください。」という押し問答を繰り広げた挙げ句、「振り込め詐欺だとしても、けっして銀行をお恨み申し上げません。」という誓約書を数枚書いて、振り込みは完了した。

聖マリアンナ医科大学

推薦試験のスケジュールは一般入試よりかなり早く、11月に英語のみの一次試験、12月に二次試験、年内に合格発表という具合です。神奈川県にある学校なので、一次試験は溝の口という駅に宿をとり、朝からバスに乗って試験会場へ向かいます。バスの車内を見渡すと、同じ年頃の、なぜか男子生徒ばかりが乗っていました。へぇ、男子もけっこう居るじゃん、と息子ともども少しリラックスしましたが、その時同乗した生徒さんのほとんどが二次試験会場にはいませんでした。南山高校は、カトリックの学校で、英語教育にやたらと力を入れていましたので、このときには本当に助かりました。さて、二次試験です。二次試験は面接と小論文ですが、特に面接は侮るなかれ、配点の5割を占める、最重要科目になります。東京医大の事件に関連して調査があり、聖マリでどんな二次試験がおこなわれているのか調査結果が公表されました。それによると、面接で不適格者と判断された場合、0点ではなく、-70点とか、-100点などのマイナス点がつくのです。400点満点の試験でマイナス70点などがついたら、絶対に立ち直れません。メディカルラボはその点も抜け目なく、以前聖マリを受験した卒業生から集めた情報をもとにして、面接会場が再構成してあり、そこで面接のトレーニングを受けることができます。その情報によると、面接は5人一組の討論形式でおこなわれるということでした。二次試験の合格率は40%ですから、まさに以前テレビで観た、「カイジ」という映画にでてくる「鉄骨渡り」というゲームにそっくりです。

出典:カイジ コミックスより
鉄骨渡りは5人一組で鉄骨をわたり、最初に渡りきった2人だけが賞金を手にすることができるシンプルなゲームだ。他の3人を突き落としたり、心理的に圧迫して落ちるようにしむけたり、意外に奥が深い。

そんな面接試験のトレーニングを積んで、塾の先生のアドバイスもしっかりと頭に叩き込み、面接会場へ向かいます。ところが、いざ行ってみたら、その年から形式が変わったらしく、面接官が3人、受験生が一人というごくオーソドックスな面接試験になっていました。とびらを開けると真ん中に怖そうなおじさん、両側に人の好さそうなおばさんが二人座っています。真ん中のおじさんは「当校を志望した動機は?」「座右の銘は?」とオーソドックスな質問を繰り出してきますが、息子に言わせると、このおじさんは囮(ダミー)なのだそうです。実は両側のおばさんが、受験生を殺すヒットマンで、真ん中のおじさんの質問に気を取られていると、両側のおばさんから串刺しにされる、そういう仕掛けなのだそうです。真ん中のおじさんの質問の合間に、隣のおばさんが質問をしてきます。「趣味は読書とありますが、最近読んだ本はなんですか?」面接前の個票に趣味は読書と書いたので、当然答えは準備してあります。「〇〇です。」「まぁ。あれ面白いですよね。私も読みました。でも、あそこの場面で、主人公は何を考えたんでしょうね。」ここが面接の山場です。知ったかぶりをしてもいけませんし、読んでません、とは口が裂けても言えません。「(来た、、、ぬるりと殺しに来やがった)自分は人生経験が足りないので、間違っているかもしれませんが、こんなことを感じたんじゃないでしょうか。」と当たり障りの無いことを言って切り抜けます。なんとか二次試験も無事終了し、年末に大学のホームページ上で合格者の発表があり、そこに息子の名前を見つけることができました。

コロナ

入学金を無事振り込み、4月に入学式があるということで、早速息子のスーツを仕立てました。私が大学に入学したときは、(いい齢して恥ずかしいので)絶対に来るな、と親にしつこく言い置いて入学式に出席したものですが、時代は変わり、最近は子供の大学の入学式に親が出席するのは当たり前になっているようです。ところが、その年はコロナウィルスが大流行し、非常事態宣言のなか、入学式は中止となってしまいました。授業もいきなりオンラインでおこなわれることになり、これには嫌な感じがしました。実は医学部という場所は、少人数であるがゆえに上下、左右の人間関係が濃く、先輩直伝の進級テクニックが伝わっているものなのです。メディカルラボのデータでは聖マリアンナ医科大学の6年生存率(6年間一度も留年せずに卒業する確率)はおよそ70%ですが、先輩、同級生からの試験情報などがなくなってしまうと、その確率はかなり下がります。そんな不安を抱いていた秋のある日、大学から父兄あてに手紙が届きました。ちょっとびっくりしたのですが、私立医大というのは親に子供の成績(席次)を連絡してくるのです。私の子供の場合は106位とありました。106、って一学年何人だっけ、と入学試験の募集要項を確認しましたが、募集人員は110人とあります。また、「下位20人の学生は父兄を呼び出して面談を行います。」と書いてあり、ご丁寧に「ご希望面談日時をご記入ください。」という用紙まで同封されているので、間違いなく、留年候補者と断言して良いでしょう。同級生の大半は一般入試で、激しい受験競争をくぐり抜けてきた猛者ぞろいです。指定校推薦で合格した甘ちゃんは並大抵の覚悟では伍していくことができないはずです。急いで下宿に電話をかけて息子の尻を蹴飛ばしましたが、元々追い込みの効かない性格なので、心配は募るばかりでした。結局、翌年の3月、「ドベから2番で、なんとか進級できた。」という息子からの報告を受けました。ヤレヤレ、なんとか進級できたか、と腰を抜かして座り込んでいたら、大学から成績表がとどきました。1学年129名中席次115位、今年度の進級者は115名と書いてありました。
息子よ、ドベから1番とドベから2番の、その1番にどんなプライドを込めたのだ。

続・続・研究の話(コロナウィルス編)

2020年2月29日は、新築ちくさ病院開院式のご案内を郵送する日です。
内覧会は吉本興業から芸人さんも呼び、地域の皆さんをお呼びして夜店企画やビンゴ大会で盛大に盛り上がる企画を立てていました。 折も折、1月から始まった新型コロナウィルス感染は日本にも流行の兆しを見せはじめ、2月も下旬になると、感染拡大を懸念して、国内の催し物が取りやめになることが増えてきました。 開院式を断行するか、それとも止めるのか、止めるにしてもキャンセル料だけで数百万円かかる話でしたので最後まで悩みぬきましたが、結局、2月29日の朝、内覧会のご案内をポストに投函しようとする事務長の袖を引っ張り、中止を決断しました。

コロナウィルスの上陸

2020年1月7日、中国で流行している重症肺炎がコロナウィルスによってひきおこされていると判明し、1月23日には武漢市がロックダウンしました。 このニュースは、私もテレビで見てはいましたが、遠い異国の出来事として何の実感もわきませんでした。 道で前向きに倒れて死んでいる人の写真がネット経由で流布されていましたが、日頃、終末期医療に携わっている身としては「人間って、そんな簡単に死ぬのかね。」と半信半疑でした。 しかし、2月初旬にダイヤモンド・プリンセス号で集団感染が発生し、死者も発生するようになると、事態の深刻さを認識せざるを得ませんでした。

新型コロナウィルス感染症はSARS(呼吸促拍症候群)コロナウィルス2によって引き起こされる一連の症状を指す。
これまでにもSARSコロナウィルスは何度か流行していて、今回の新型コロナウィルス感染症は2019年に流行が始まったため、COVID(コロナウィルス感染症)19と呼ばれている。 電子顕微鏡で撮影すると、ウィルスの表面は太陽のコロナに似た構造物(スパイクタンパク質)に覆われていて、このためコロナウィルスと呼ばれている。

3月になると、いよいよ市中にも感染が広がり始め、非常事態宣言が発令され、日本中がパニックに陥り始めました。
「開院式も中止になっちゃったし、週末に温泉にでもいって、少しくつろごうか。」と三重県の鳥羽温泉に予約を入れましたが、出かける寸前になって、ホテルからキャンセルの電話がありました。 三重県知事の判断で休業要請があったというのです。 「三重県は感染者ゼロなのに、、、」とブツブツ言いながら、仕方なく、京都のホテルに予約を入れて京都へ向かいましたが、主だった寺社はほとんどがしまっており、市内は閑散としていました。 この時期は「千種区役所で感染者が一人でた!」とか、「愛知県の感染者が10人を超えた!」とか騒いでいましたので、今考えると、のどかな時代でした。

土地売却

2020年春の第一波は、「感染者がでた」とテレビで騒いでも、身の回りにはほとんど感染者がおらず、正直まだピンと来ませんでした。ただ、私にとってコロナ禍を実感する出来事が突然、襲ってきたのです。
ちくさ病院は2020年4月に新病棟が竣工し、旧病院は解体して、跡地を不動産業者に売却する手はずになっていました。 病院を新築すると、いくら費用がかかると思いますか?今回の新築移転では、合計20億円ほどかかりました。 建物を作るのに13億4千万円(プラス消費税)、土地4億円、旧病院解体費1億円、不動産に関わる税金・手数料などなど。 その費用は、これまでコツコツためてきたお金のなかから支払うわけですが、その中でも、旧病院の跡地売却から捻出する土地代金9億2千万円は、建築業者さんへの支払いに充てる予定でした。 ところが、4月になって土地を購入する予定だった不動産業者さんから突然、買い付けキャンセルの連絡が入ったのです。

万事休す、といったところですが、さして困りませんでした。
実は、感染拡大の報に接したとき、取引のある銀行から運転資金の名目で、10億円ほど掻き集めておいたのです。 このようなときはスピードが命で、その後、コロナ禍よって多くの医療機関の財務状況が悪化しましたが、経営が悪化してから借りに行くと、銀行はお金を貸してくれません。 パンデミックに怖気づくのは、不動産業者も銀行も同じだからです。 今回の取引では、不動産業者さんにも数千万円のキャンセル料が発生したはずですから、よほど怖かったのでしょう。 リーマンショックのとき、立て続けに不動産業者が倒産していくのを私も見ていましたから、その気持は分かります。 その後、病院跡地は使いみちもなく、しばらく宙ぶらりんの状態となりました。日経平均株価が大暴落して、不動産取引どころではなくなったからです。

その後、不動産業者さんが引き続き買い主を探してくれましたが、買い手はなかなか現れません。 事務長も「ひどい不況で、買い主が見つからんようです。」と報告してきましたが、売値は絶対に下げるな、と厳命しました。 政府・日銀による金融緩和が始まっていたからです。リーマンショックのとき、十分な金融緩和をせずに政権を失った経験から、今回の自民党は矢継ぎ早に手を打ってきました。 アメリカや中国に比べれば、規模も小さく、迫力も薄い政策ですが、それでも株価は急反発していきます。 この緩和マネーは、いずれ不動産取引にも入ってくるはずです。結局1年後、値札どおりの価格で土地を売却することができました。

第2波

梅雨時になると感染は次第に収束していきました。ウィルス感染は空気が乾燥していると広がりやすく湿度が高いと水平感染しにくい傾向があります。
これまでに世界的な流行となった過去のコロナウィルス感染(SARS、MERS)も夏には感染収束しています。トランプ大統領も「夏にはオバケのように消えて無くなる。」と言っていましたし、米国大統領のような偉い人は嘘つかないだろう、私もたかをくくっていました。 ところがどっこい、夏に第2波が来てしまったのです。このとき、私の外来に初めてコロナ感染の患者さんがやってきました。 糖尿病で通院中の方で、カラオケが大好き。数日前から咳が止まらない、というのです。

CTを撮影したところ、りっぱなCOVID肺炎がみつかり、大急ぎで国立名古屋医療センターを紹介しました。
自分の病院に入院させるわけにはいきません。 この時期、全国で衛生材料が不足していて、うちのような中小病院ではマスクや消毒用のアルコールにさえ事欠く有様だったからです。

出典:国立国際医療研究センター 忽那賢志先生作引用
新型コロナウィルスは糖尿病や高血圧、肥満などがあると重症化しやすい。
持病に成人病があると、活性酸素によって全身の細胞が傷つきやすく、その傷を癒すために、細胞表面にACE2受容体という膜タンパクが出現する。 コロナウィルスは、このACE2受容体を狙ってくるのだ。

新型コロナウィルスの構造
ウィルスの遺伝情報を抱えたRNAを脂質とタンパク質でできたエンベロープ(E)が包んでいるが、表面の突起(S)をスパイクタンパク質とよび、この突起が人間の細胞のACE2 受容体を狙っている。

第3波

その後、第2波は収束していきましたが、夏に第2波が来たということは、11月ごろには第3波がくるでしょう。
そして、それは、これまでより大きな波に違いありません。2020年秋には長期戦の覚悟を決めていました。 秋になるとようやく、我々の病院にもマスクや消毒用アルコールが届き始め、検査用の抗原検査キットもとどきました。 また、第3波が到来する頃にはPCR検査をする体制も整ってきました。 また、コロナ感染者を一般の患者さんと同じ部屋で診察するわけにはいきません。 病院の駐車場に足場を設けて、陰圧テントを張り、発熱外来としました。

年の瀬も押し詰まると、いよいよ感染は急拡大を始め、それに伴い、入院病床も逼迫してくるようになりました。
私達が在宅医療で見ている患者さんの中にも感染者が現れ、保健所に連絡しても、空きベッドがない、との理由で入院を断られるようになってきました。 そんな中、12月31日の大晦日にちくさ病院のコールセンターから私の携帯に連絡が入ります。 老人ホームにいる、入院待機中の在宅患者さんの酸素飽和度が下がってきた、というのです。 その老人ホームは年末にクラスターが発生し、一部の入居者は入院しましたが、他の入居者は収容しきれず、老人ホームで自宅待機の状態となっていました。 その中の一人の血液の酸素量が減ってきた、というのです。

こういった緊急往診の用件は、本来ならその日の当番の医師が処理する案件ですが、コロナの患者さんの往診は、医者も感染してしまう可能性があり、それを怖がる医師が職場放棄することも珍しくありません。
実際、ちくさ病院でも何人か医師の退職者が出ていましたので、コールセンターが気を利かして、私へ直接連絡してきたのです。 早速、老人ホームへ往診に行きましたが、病院と異なり、感染予防策が十分に施されている現場ではないので、少し覚悟が必要です。 この程度のことでコロナに感染して死んでしまうのなら、自分はしょせんその程度の人間だった、という割り切りです。 施設の玄関をくぐると、N95マスクとフェースガード、ガウンを着た職員が出迎えます。 密室のなかでも双方がマスクをしていれば濃厚接触者にはならないのですが、相手は認知症高齢者なので、苦しがってマスクをはずしてしまいます。 当然、こちらも宇宙人のような恰好で診察する必要があります。 さて、患者さんのお部屋へ入り、指に器械を挟んで酸素飽和度を測定すると88%しかありませんでした。

在宅医療でよく使用されるパルスオキシメーター
血液の中の酸素濃度を測定する装置。 100個の赤血球のうち、何個の赤血球に酸素がくっついているか、を現しており、健康な人間は普通、96%以上ある。

この数値が93%を切ると、入院させる決まりとなっているため、名古屋市の中保健所に入院依頼の電話をしましたが、案の定「コロナ病床は満床のため、入院できる病院はありません。」と断られてしまいました。
こうなると、入院できるのがいつになるのかわからないため、なんとかベッドが空くまで、患者さんを持たせないといけません。 そこで、酸素吸入を開始しようと、在宅酸素の業者さんに連絡を入れました。

在宅医療でよく使用されるパルスオキシメーターよく使用される酸素濃縮器と酸素ボンベ。
肺気腫など、呼吸機能の弱い患者さんが使用するもので、お部屋で暮らすときには左の酸素濃縮器を使用し、外出などのときには右の酸素ボンベをキャリアに乗せて持ち運ぶ。

在宅酸素の業者さんというのはたいしたもので、24時間365日、いつ電話をしても担当者に繋がります。
この人、いつ寝ているんだろう、もしかしてブラック企業?かもしれませんが、どんな深夜でも嫌な顔ひとつせず、酸素濃縮器や酸素ボンベを届けてくれます。
大晦日にも関わらず、その日もすぐに電話に出てくれました。大至急、酸素濃縮器を持ってきてもらうように頼みましたが、なんと、「濃縮器はお渡しできません。」と断られてしまいました。
コロナ陽性者に酸素濃縮器を貸し出すと、返却時に器械ごと破棄しなければならないのだそうです。 しかたなく、何とかボンベだけでも、とお願いして酸素ボンベを3本届けてもらいましたが、1分あたり1リットルの酸素吸入で10時間しか持たない、とのことでした。 3本で30時間が限界ということですが、今後呼吸困難がひどくなって、例えば、5リットル吸入させた場合、6時間しか持ちません。 一刻も早く入院ベッドが空きますように、と眠れない夜をすごしましたが、翌日保健所から連絡があり、なんとか入院までこぎつけることができました。

第4波

今思うと、2020年の年の瀬がコロナ第3波のピークであったと思います。
2021年の1月8日に非常事態宣言がだされて、次第に感染は終息傾向となりました。
しかし、このころから世界中で変異株の出現が報道されるようになり、第4波の到来は遠くないように感じられました。 次の襲来に備えて、戦いの準備を進めなければなりません。このために我々の病院ではアボット社の検査機器を導入しました。 コロナウィルスの蔓延防止のためには無症状のうちに、潜伏期のうちに感染者を突き止めなければなりません。これまでのPCR検査では、結果が出るのに1-2日かかってしまい、外来にきた感染者をいったん自宅に帰してしまうことになります。 この装置があれば、わずか13分でPCR検査並みの検出感度でコロナの診断ができます。

アボット社の開発したコロナウィルス核酸検出装置
ちくさ病院でも連日フル稼働しているが、弱点は1検体ずつしか処理できないことだ。集団感染の大規模検査には向いていない。

また、ファイザー社製ワクチンの配布を受け入れるためのディープフリーザーも設置しました。

-80℃に冷やせるディープフリーザー
4月にちくさ病院に設置し、いつワクチンが到着してもいいようにキンキンに冷えていたが、ワクチンが届いたのは6月だった。

2021年の2月にファイザー社のワクチンが初めて日本に到着し、ワクチンが来るのが早いか、第4波が来るのが早いか、やきもきしていましたが、残念ながら先に到着したのは第4波でした。

変異株

第4波が到着したときから、医療関係者の間では「なんとなく、おかしい。」という感触がありました。
これは珍しいことではなく、実はパンデミックの波というのは、到来するごとに感触が違うのです。第2波は第1波に比べて患者さんの重症化が少なく、ウィルスが弱体化したのでは、と言われていました。 第3波は第1波と同じぐらい重症化し、「なんだ、やっぱり弱体化してないじゃん。」と、がっかりしましたが、病院がコロナウィルス感染症の治療について経験を蓄えていたので、ある程度重症化を予防したり、死亡率を低下させることができました。 しかし、第4波はこれまでで最も手強い波となりました。 まず、これまでは軽症で治っていた若者が、どんどん重症化していきます。また、いったん重症化すると回復まで時間がかかります。 3月に余裕のあった市内の感染症病床は4月には急速に埋まり、5月の名古屋市のWEB会議ではイラついた病院院長たちの怒号が飛び交うまでになりました。
変異ウィルスが上陸してきたのです。

追い込まれた状況では、こんな状況に追い込んだ犯人探しが始まります。
「世界一病床があるのに医療崩壊するのはおかしい。」「民間病院がコロナの患者を受け入れないのが悪い。」「市や県は何をしているのだ。」「俺達には、ワクチン接種にさける人手はない。」「次から次へと入院してくる。在宅医療の医療機関は何をしているのか?少しは在宅で患者を診てほしい。」マスコミもコロナの治療にあたっている医療機関も次第にヒステリックになってきます。
「在宅医療の医療機関にも、入院できなくて待機している感染者のフォローをしていただいています。そうしていただいた上で、現在の状況となっています!」保健所の担当者が一生懸命説明しますが、説得している保健所自身もこの状況の中でクタクタのはずです。
日本は病床が多いのになぜ、コロナ受け入れ病床が足りないのか。理由は至極簡単です。日本は世界一高齢者が多いからです。 これは裏を返すと、病気を持っている人が多いということで、コロナが流行する前から病院は常に満室でした。 そこへコロナが降って湧いてきて、今入院している人を追い出してコロナ専用病床を作ろうといっても、おのずから限界があるのです。 今、世界中でコロナ、コロナと騒いでいますが、病気をして死にかけている人はコロナ患者さん以外に大勢いますから。

ワクチン

このような切迫した状況の中、ついにワクチンがとどきます。
2021年2月に日本に上陸し、我々の病院も4月にディープフリーザーを設置しましたが、長い間ワクチンは届かず、フリーザーはずっと空っぽでした。 ファイザー社がワクチンを提供してくれないのです。 これは資本主義の原則なのかもしれませんが、相手が困っていれば困っているほど、高い値段で売りつけたくなるものなのでしょう。 そこで(ここからは私の推測ですが)、菅首相が4月15日に訪米し、バイデン大統領に日本の窮状を訴えると、怒った大統領がワクチン製造の特許を公表するようにファイザー社に詰め寄りました。 世界に先駆けて成功したワクチンの製造法をタダで公開しろ、と脅迫されてはたまりません。 ファイザー社は大慌てで日本にワクチンを輸出することにしました。

米国大統領ジョー・バイデン
Good job man! (やるじゃないか、オッサン)。おかげで、助かったぜ。

ワクチンについて、簡単に説明します。ワクチンは本来、開発に4-5年かかる性質のものですが、今回造られたRNAワクチンは米国のワープスピード計画によって、わずか1年で製造されました。 95%という非常に有効性の高いワクチンを短時間で作成したという実績は、米国の高い技術力を示しています。 いっぽう、日本は自国でワクチンを製造することに成功していません。 それはなぜかと言うと、まず第一に、米国は国防費でワクチンを製造しているからです。ウィルスは生物兵器であり、それに勝利するために米国は戦費を調達しました。 ワクチン開発にかける費用が、日本と米国では桁違いなのです。 また、日本ではワクチンの副反応に対する批判が激しく、製薬会社も厚生労働省もリスクのあるワクチン開発に後ろ向きです。 最後に、たとえワクチンが完成したにしても、日本では感染者が少なすぎて第3相臨床試験がおこなえず、ワクチンの効果を判定できません。

RANワクチンの技術を開発したハンガリー出身の研究者ケイト・カリコ。
研究の重要性が理解されず研究費を打ち切られたり、さんざんひどい目に遭いながらmRNAに関する研究を続けてきた。
ノーベル賞が確実視されている。

RNAワクチンが人体でどのように効果を発揮するか、ということについても簡単に説明します。 RNAはタンパク質を作る設計図で、その設計図を脂でできたカプセルでくるんだものがRNAワクチンです。
RNAワクチンを注射すると、体内にある樹状細胞という細胞に取り込まれ、設計図(RNA)にしたがってコロナウィルスの一部分(スパイクタンパク質)が合成されます。 樹状細胞は細胞の表面にスパイクタンパク質を表示し、「こんな敵が攻めてきたよ!」と免疫細胞にメッセージを送ります。 そのメッセージを受け取ったリンパ球が中心となって、コロナウィルスをやっつける抗体が造られます。

6月にようやく、第4波が沈静化し、沖縄を除く地域で非常事態宣言が解除されました。
これから夏の行楽シーズンを迎えて第5波が訪れるのは確実です。
ワクチン接種が間に合うか、第5波の到来が早いか、オリンピックの成功と第5波の感染抑制の実績をひっさげて、政府自民党は総選挙に臨みたいはずです。
このイベントもいよいよ佳境を迎えてきました。

すき焼き

2021年4月コロナウィルスの第4波がまん延するなか、私は税理士さんとすき焼きをつついていました。
非常事態宣言のなかなので、お酒が飲めないのが残念でしたが、人形町今半のお肉は美味でした。特に美味しく感じたのは、その食事が税理士さんの奢りだったからです。
遡ること1年前、私と税理士さんはある賭けをしました。この時期はちょうど、日経平均株価が2万円を回復した時期だったと思います。 今後の資産運用の方針について、税理士さんと意見が真っ二つに割れました。この頃彼は、娘の教育のために香港を離れ、ロンドンに転居していました。 中国やイギリスの景気の悪さを見ると、今後日経平均は再び下落して3月の安値16,358円を割り込むだろう、というのです。この意見には承服できませんでした。 リーマンショックの反省から、日銀は大規模金融緩和を始めています。 悪いことにこの時期、日経225の裁定取引は大幅に売り長となっており、マーケットは日経平均株価の下落を予想した外国人投資家による空売りがパンパンに膨れ上がっていました。 これらの売り玉が金融緩和で踏み上げられれば、我々が抱えている日経平均インバースETNはタダ同然になってしまいます。 私はインバースETNの処分を提案しましたが、結局、意見はまとまらないまま、日経平均が2020年中に16,358円を割り込んだら私が、割り込まなかったら税理士さんが食事を奢ることになりました。

その後結局、日経平均株価は16,358円を割り込むことなく、めでたくすき焼きにありつくことができたという訳です。 日経平均が20,000円を超えた直後、私は手持ちのショート(売り玉)をすべて清算し、出来た資金でポートフォリオをすべてロング(買い玉)へ変更しましたが、税理士さんはその後もショートを続け、かなりの損害を被ったようでした。 数億円か、十数億円か、もしかしたら数十億円かもしれませんが、まぁ、大丈夫でしょう。 今日も彼の財布には黒いクレジットカードがキュンキュンに詰まっています。 すき焼きの代金を支払おうと、慌ててカードを一枚引っぱり出したら、つられて出てきた他のカードをまき散らしてしまいました。
床一面にちらばったブラックカードを眺めながら、自分より資産運用の下手な人がいることに少しホッとしている自分に気が付きました。